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鰯ヶ島の御殿屋敷
鰯ケ島に、今でも近所の人々から御殿とよばれている場所があります。そこには昔、御殿屋敷があったと言われています。
その場所は、鰯ケ島から城之腰の札の辻の小路にかけての、海がわのあたりです。
このあたりは、他の場所より、1メートルから1.5メートルくらい高くなっています。屋敷の一部は、今では、海の中にしずんでいるそうですから、その広さは見当もつきませんが、かなりの広さだったのでしょう。
なぜ御殿屋敷とよばれるようになったのでしょうか。
江戸時代に作られた本で、駿河の国(今の静岡県)のことが書かれている「駿河記」や「駿河雑誌」の文の中に、「将軍が京都へ上るとき、田中城が将軍のお休み所になる。そのため、田中城の城主は、鰯ケ島のうら畑の、松の大木のある所に仮の館を作り、そこに移って浜の警護をした」と書いてあります。
この館のことを、人々は「御殿屋敷」とよぶようになったということです。また、札の辻の小路に、「二門小路」と今でも呼ばれているところがあり、館の二の門だったとも考えられますが、たしかなことはわかりません。
もう一つ、こんな言い伝えが残っています。
大坂夏の陣に敗れた大坂方の武士三人が、この地にやって来ました。三人は、ここに住みつき、海岸の松のある付近に畑を作り、農作物を作ったり、漁師の手つだいをしたりして生活していました。
ところが、三人のうち二人が、きびしい労働と心配ごとがかさなったためか、つづいてなくなりました。残った一人は、悲しみにくれていましたが、近所の人の世話で、近くの漁師のむすめと結婚しました。
二人は一生けんめい働いて、このあたりでは見たこともないような、京都風の家を建ててくらしました。この家があまりにもりっぱであったので、人々は、「御殿のようだ」、「御殿屋敷だ」というようになったということです。
この二人には、子どもがなかったため、二人がなくなると、あとが絶えてしまったそうです。
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ページ更新日:2013年2月16日