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信香院の十一面観音
小川の会下ノ島に、信香院というお寺があります。このお寺がいつごろできたのかはっきりわかりませんが、明応七(1498)年の津波で海に沈んでしまった林叟院という大きなお寺の一部が、そのもとになったのではないかといわれています。
信香院を開いたのは、通山放釈(つうざんほうしゃく)というお坊さんで、お寺をつくらせたのは、小川城の長谷川正長というお殿さまでした。その後、このお殿さまは三方原で戦死してしまったのですが、今もこのお寺にそのお墓が残っています。
またこのお寺はむかし修行道場で、たくさんのお坊さんたちが集まったところでした。
さて、このお寺のご本尊は十一面観音さまで、永禄十一(1568)年秋の武田軍の兵火や、その後の津波や大地震など数多くの災害にあいながらも難を逃れ、今も本堂にまつられています。
実はこの十一面観音さま、本面を合わせても十面しかないのです。おや、と思うかもしれませんね。
そうなんです。ふつう十一面観音というのは、頭の上に十面か十一面の顔をもっていて、頭かたちのそれぞれちがう面は、信仰する人たちをたすける方法を表しているということです。
ですから、この十一面観音さまは、十面しかないので、人々から長い間不思議に思われていました。
ところが、大正十二(1923)年に、この観音さまのこわれたところを修理することになり、静岡の仏師(仏像を作る職人)に修理をたのんだところ、観音さまのおなかの中に、もう一体の仏像があることがわかったのです。
この十一面観音さまは、このおなかの中の仏像を合わせて、十一面観音だったのです。
仏像のおなかの中に入っているもう一つの仏像のことを、胎内仏(たいないぶつ)といい、仏像のせなかの部分をほってその中におさめられています。どんなとき胎内仏が作られるかというと、亡くなった人のめいふくを祈って仏像を造るとき、亡くなった人が生きているときいつも祈っていた小さな仏像を、その中におさめるという場合などです。
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ページ更新日:2017年3月18日