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鬼平と焼津

時代小説家として愛され続ける池波正太郎さんの生誕100年を記念した事業が、日本各地で行われています。令和6年5月には、池波作品のうち『鬼平犯科帳』が映画として公開されることになり、さらなる盛り上がりをみせています。

生誕100年事業が進むなか、焼津市では日本遺産の静岡版である『しずおか遺産』推進事業を展開しています。焼津市と近隣関係市で進める『しずおか遺産』のストーリーは「文武に秀でた今川一族~伝統を守る山西の地」。関係市や市民、民間の団体と協力し、今川氏に関する魅力ある歴史文化を広く発信していく計画です。

実は『鬼平犯科帳』の主人公、鬼の平蔵こと長谷川平蔵が、山西と呼ばれた焼津の地で今川氏を支えた一族に縁を持つ、実在の人物だったことはご存じですか?鬼平のルーツをたどると、焼津の歴史ストーリーにつながります。鬼平を通じた、焼津の魅力を紹介します。

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実在した長谷川平蔵

小説『鬼平犯科帳』は、実在した長谷川平蔵宣以(はせがわへいぞうのぶため)をモデルに執筆されています。平蔵は江戸時代の延享年間(1744~1747)、旗本400石取りの長谷川宣雄(のぶお)の長男として生まれました。名前の平蔵は父の宣雄から親子3代にわたる通称で、宣以は2代目平蔵に数えられます。幼名は銕三郎(てつさぶろう)(銕次郎(てつじろう)とも)、若いころは「本所の銕(ほんじょのてつ)」とあだ名がつけられ、かなり放蕩な(今でいう不良な?)生活を送っていたことが記録に残っています。

長谷川氏の家紋「三つ藤巴」

長谷川氏の家紋「三つ藤巴」

映画『鬼平犯科帳』の平蔵の陣笠にも使われています。

父から家督を継いだのちに様々な役職を命じられ、天明7年(1787)に火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためがた)に任ぜられます。平蔵が武勇をはせたのは、関東全域で盗みを働いていた真刀徳次郎(しんとうとくじろう)一味の大捕り物でした。このほかにも凶悪な強盗団を捕まえるなど、火付盗賊改方として活躍した平蔵は、同僚からはあまり評判が良くなかったようですが、部下や庶民からはたいへん人気があったと伝わります。

平蔵の業績には火付盗賊改方としての活躍のほか、時の老中、松平定信(まつだいらさだのぶ)も認めた人足寄場(にんそくよせば)の創設が挙げられます。人足寄場は、罪人で刑期を終えた人や行き場のない人を、大工仕事や細工仕事などの職につけさせて、厚生をはかる施設でした。松平定信の自叙伝である『宇下人言』(うげのひとこと)には、平蔵が人足寄場を整えたおかげで犯罪が少なくなった、との趣旨が記されています。

平蔵は寛政7年(1795)に病気で死去しました。墓は東京都新宿区の戒行寺(かいぎょうじ)にあります。

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長谷川平蔵の系譜

長谷川平蔵は、歴史小説上はもとより、史実としても大変魅力的な人物として伝承されています。この平蔵と焼津の関係とは?平蔵をさかのぼること戦国時代前後の焼津から探っていきます。

「山西」(やまにし)をおさえた小川城(こがわじょう)

室町時代から戦国時代、現焼津市小川(こがわ)には東西150m、南北80m内外を測る、長方形の巨大な堀に囲まれた平城が築かれていました。堀の幅は約14m、堀に沿って土塁が築かれ、土塁から堀の底までの比高は約5mと、堅固な構えが想像されます。発掘調査では堀のほか、城の内部の倉庫群や、儀礼用と考えられる館などが確認され、周辺にも城下町のように建物などが見つかっています。(小川城跡の説明

小川城跡で発掘された堀(幅約14m)

小川城反別図

発掘調査で確認された小川城跡の構え

のちに「長者屋敷」(ちょうじゃやしき)として人々の記憶に残り、いまは「小川城跡」と呼ばれるこの城は、平安時代の書物にも古代の駅として名前が載る「小河」(小川)の地にあり、また中世の重要な海運基地だった「小河湊」(こがわみなと)も管轄しており、太平洋側の陸海双方の要衝をおさえる重要な拠点でした。戦国期の焼津は「山西」と呼ばれ、駿府(現静岡市)を本拠地としていた大大名・駿河今川氏の西の守りの要でもありました。「山西」の「山」は焼津市北方の高草山山地のことで、「山西」は駿府から高草山山地を越えた西にある地、という今川方からみた用語です。

小川城主・長谷川氏

戦国期の小川城の城主は長谷川氏です。長谷川氏のそもそもの出自は明確でない点もありますが、長谷川次郎左衛門尉正宣(はせがわじろうざえもんのじょうまさのぶ)から元長(もとなが)、正長(まさなが)と続く系譜が確認されています(一説には元長の次の当主は能長(よしなが・正長の兄弟)とする説があります)。この時代、長谷川氏は今川氏を支えていました。正宣の代に、今川家8代当主義忠(よしただ)が塩買坂(静岡県菊川市)で討死し、当時4歳だった義忠の遺児・龍王丸(たつおうまる)と小鹿範満(おしかのりみち)との間に家督争いが起こりました。この争いの際、正宣は北条早雲(伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき))と連携し、義忠の正室の北川殿(きたがわどの)と龍王丸を小川城にかくまいました。のちに早雲は現焼津市石脇の石脇城を拠点に駿府館を襲い小鹿範満を討ち、家督争いを鎮め、龍王丸は今川家9代当主氏親(うじちか)となります。長谷川氏はその後も今川家を支えていきます。

小川城主長谷川氏は軍事・政治面で力を発揮しただけでなく、文化人でもありました。正宣は今川家に仕えた連歌師(れんがし)の宗長(そうちょう)と誼(よしみ)を通じ、正宣の没後、宗長は供養のために歌を詠んでいます。この連歌の発句「折かさせ老の名残の春の花」は正宣が詠んだものです。正宣の子、元長も宗長を招いて千句連歌の会を催すなど、すぐれた教養を身につけていました。なお、小川城跡の発掘では中国大陸所産の陶磁器類や茶臼などの茶道具が見つかっており、今川家が駿河にもたらした当時の進んだ文化を享受していたこと物語っています。また、正宣は仏教にあつく帰依して、林叟院をはじめとする寺院の創立に貢献し、「山西の有徳人(やまにしのうとくにん)」「法永長者(ほうえいちょうじゃ)」と称えられました。城跡が「長者屋敷」といわれたのも、正宣に由来します。

長谷川家は文武両面に秀でた一族として「山西」と呼ばれた焼津の地に自立していました。

長谷川正宣夫妻の墓碑(林叟院)

旗本・長谷川氏へ-その源流 焼津小川法永長者にあり-

正宣の孫で、元長の子にあたる正長は、小川城の最後の城主です。永禄13年(1570)、武田信玄が高草山山地の日本坂を越えて焼津に侵攻してきました。この時、戦国大名今川氏はすでに消滅していましたが、今川方として抵抗を続ける武将がいました。長谷川正長もその一人です。武田信玄は日本坂峠越えの街道筋に構えられた花沢城での激戦を制したのち、徳一色城(とくいっしきじょう)(田中城・現藤枝市)へと進軍します。正長は武田軍を阻止するため、小川城を出て徳一色城に入っています(正長の兄弟である能長は武田方につき、これに同調しなかった正長は徳一色城で抵抗したとも考えられています)。小川城をめぐる合戦の記録は残っていませんが、正長自身で火を放ったのか、進軍する武田軍が焼き払ったのか、小川城跡の発掘調査で見つかった木製品などには焼けた痕跡がみられるものも少なくありません。どちらにしても小川城はこの時、廃城になったと考えられます。

小川城跡から発掘された、焼け跡の残る遺物

焼津市歴史民俗資料館で見学できます。

正長がこもった徳一色城は武田軍に破られます。城を出た正長は西へ向かい、徳川家康の指揮下に入ります。正長は徳川・武田の戦いとして知られる三方ヶ原(みかたがはら)の合戦に参戦し討死、自身が開いた焼津の信香院に葬られました。

正長には子どもがおり、その次男の宣次(のぶつぐ)は正長に次いで徳川家康に仕え、のちに旗本になりました。この正長次男の系譜を辿ると、数えて8代目に平蔵宣以がつながります。今なお多くの人を魅了する鬼平は、焼津の地で「法永長者」と慕われた小川城主を源流としているのです。

鬼平と関係する焼津の寺院・史跡など

焼津市には『しずおか遺産』ともリンクする、鬼平関係の歴史文化が残っています。また、小説に登場する食べ物を含め、海の幸が豊富です。コンパクトな市域に文化遺産が点在していますので、焼津と鬼平の歴史を感じながら、1日で周遊することも可能です。

高草山 林叟院(こうそうざん りんそういん)

林叟院は、鬼平の源流、法永長者と称えられた長谷川正宣を開基とし、約160ヶ寺の末寺を有する志太地域の曹洞宗の拠点寺院です。高草山山麓の焼津市坂本に所在し、境内には焼津市指定文化財の経蔵鐘楼宝篋印塔(ほうきょういんとう)のほか、本堂、開山堂、坐禅堂、衆寮などの諸伽藍が配置されており、周囲の自然と相まって、禅寺としての荘厳な雰囲気を感じられます。かつては現在の小川港近辺にあり、文明3年(1471)に創建されました。明応6年(1497)、現在の坂本の地に移った翌年、明応の地震が起き、寺のあった場所は海底に沈んでしまいました。この移設の経緯については伝承が残っています。(明応の津波と林叟院

林叟院境内(右上は市指定文化財の鐘楼)

開基の長谷川正宣は、坂本の地頭だった加納家に生まれ、小川城主の長谷川長重(ながしげ)の娘婿に入ったと伝わり、坂本に林叟院を移したのは、この地縁によるものともいわれています。林叟院の開山堂には当寺開山の賢仲繁哲(けんちゅうはんてつ)師とともに正宣がまつられ、境内には旗本だった長谷川氏の子孫が江戸時代に建立した正宣夫妻の墓碑が残ります。

長谷山 信香院(ちょうこくざん しんこういん)

長谷川平蔵の直系の先祖である長谷川宣次は、正長の次男です。最後の小川城主となった正長が葬られたのが信香院で、平蔵と焼津の縁をつなぐ重要な寺院です。信香院の開基は正長の父・元長とする説もありますが、位牌堂には開基として正長がまつられています。三方ヶ原の合戦で戦死した正長の戒名は「長谷寺殿林叟信香大居士」で、お寺の名前と山号の「長谷山」はここに由来しています。なお、本尊の十一面観音は外観では十面しかありませんが、後に胎内仏を含めて十一面としたことが判明しました。(信香院の十一面観音

小川城跡と出土遺物

小川城跡では、過去に区画整理に伴う発掘調査が行われました。中世の城跡からは、中国大陸から運ばれた舶載陶磁器を含む多量の土器片、呪符木簡、下駄や漆椀などの木製品、茶道具の茶臼、天目茶碗などが見つかり、当時の文化水準の高さが示されています。

小川城が築かれた場所は、ほとんどが低地で河川等の水害が多発してきた焼津にあって、周囲よりも若干高い「小川微高地」(こがわびこうち)と呼ばれる微高地上にあります。ここには、中世を遠くさかのぼる古墳時代から、人々が暮らしていたことが判明しています。(小川城跡の説明

小川城跡から出土した茶臼、天目茶碗、舶載陶磁器など

現在、小川城跡は宅地となり、河川などの地形も変わり当時の面影は感じられなくなっていますが、発掘調査で出土した資料は焼津市歴史民俗資料館で紹介しています。

清浄山 西光寺(しょうじょうざん さいこうじ)

西光寺は小川城跡の石碑から南に250mほどの位置にある、長谷川正宣が開基の浄土宗寺院です。正宣は曹洞宗の林叟院の開基でもありますが、諸宗へだたりなく協力しました。「法永長者」と称えられるゆえんです。

西光寺には小川城にまつわる伝承が残っています。正長が小川城を出て徳一色城にこもる前、小川城の財宝を石棺に収めて、西光寺の境内に埋めたそうです。今は小さなお堂となっていますが、当時の西光寺は志太地域の浄土宗寺院の拠点で、広い敷地を有していたと伝わり、小川城に近接していたと考えられます。財宝は本尊の阿弥陀如来の指先から200歩ほど離れた場所に埋められたということが、本尊の体内に収められていた文書で分かったそうです。そこには「この石棺を開く者は、何代も不幸が続くだろう」という内容も添えられていたといいます。

昔、寺の近くに住む老人によると、石棺が埋められていたというあたりを足で踏むと、トントンと音がして、鉄の棒を指しても通らなかったとのことです。今は土地改良や本堂の位置も変わっており、財宝の場所は分からなくなってしまったと伝わります。

その他-池波正太郎著書に登場するなまり節

池波正太郎さんが『鬼平犯科帳』を執筆するにあたって、焼津市のどのあたりをどのように取材され、何を食されたのでしょうか。『鬼平犯科帳』には、焼津の伝統食でもある「なまり節」が登場します。なまり節は「生鰹節」や「生利節」とも書き、単に「なまり」と呼ぶこともあります。鰹を煮沸処理したもので、鰹節になる初期段階の加工食品といえる伝統食です。

以下は『鬼平犯科帳』「狐雨」の一場面です。この場面は、『池波正太郎 鬼平料理帳』(佐藤隆介編 文藝春秋)の「鬼平料理帳・夏」の初項「生鰹節」でも紹介されています。

「この日の、長谷川平蔵の夕餉の膳にのぼったものは、生鰹節の煮つけに、蚕豆の塩ゆで。竹の子とわかめの吸物など、質素なもので、先ず、酒と共に二組の膳部が書院へ運ばれた。(中略)飯は、生鰹節をむして入れた濃目の味噌汁に豆腐の厚焼きで食べたのだが、これを食べながらも助五郎は、「油揚げは、まだか。まだか、まだか、まだか?」しきりに催促する。(後略)」

『池波正太郎のそうざい料理帖』(平凡社)にも「初鰹二種-鰹の刺身・生鰹節の甘酢和え【夕・酒肴】」と題した項があり、著者が鰹の刺身、そして鰹の加工品のなまり節を好んでいたことが記されています。上記小説の江戸時代の設定では、遠方からの流通は難しく、鰹は江戸でも揚がっていたので、当地で加工されたなまり節ということになるでしょう。焼津では、昭和25年4月に戦争による食糧統制が解除されたのち、東京・築地にもなまり節が盛んに出荷されているので、東京在住だった池波正太郎さんが食したなまり節に、焼津産があったかもしれません。鰹の水揚げ量全国最多を誇る焼津では、池波さんも鬼平も好物だったなまり節が、今も特産品として生産されています。

東京・築地に送られたなまり節の販促ポスター

(昭和39年以降)

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焼津市 生きがい・交流部 文化振興課 歴史民俗資料館

所在地:〒425-0071 静岡県焼津市三ケ名1550(焼津市文化センター内)

電話番号:054-629-6847

ファクス番号:054-629-6848

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ページ更新日:2024年4月21日

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