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小泉八雲その生涯

晩年の小泉八雲の写真

誕生ギリシャ~

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、1850(嘉永3)年6月27日、ギリシャ本土西側のイオニア海に浮かぶ風光明媚な地・レフカダ島で生まれました。父はアイルランドへ移住したイギリス人の子孫であるアングロ・アイリッシュ出身でイギリス軍医、母はギリシャ人でした。また、八雲自身はイギリスの国籍を持っていました。

少年時代アイルランド・イギリス~

2歳のハーンは父の転任により、父の実家があるアイルランドのダブリンへ母と共に移ります。
しかし、異国での生活に馴染めなかった母はハーンを置いて故郷のギリシャに帰り、ハーンが6歳の時に両親は離婚します。両親と別れたハーンは、資産家で子どものいない大叔母(父の母方の叔母)に引きとられ、イギリスの学校に入学しますが、遊戯中の事故で左眼を失明してしまいます。さらに17歳の時に大叔母が破産するという悲劇が訪れ、そこから彼のさすらいの人生が始まります。

アメリカ時代

1869(明治2)年にハーンは新天地を求めて、イギリスのリバプールから移民船に乗りアメリカへ渡ります。まず始めにオハイオ州シンシナティに落ち着き、貧しい生活に苦しみながらも勉学に励み、やがて新聞記者としてその文才が広く認められるようになります。1877(明治10)年に大都市ニューオーリンズに移り、1884(明治17)年にこの町で開催された万国産業綿花博覧会で、日本から出品された美術工芸品を通じて日本文化に触れたことが、ハーンと日本を結ぶ重要な契機となりました。

日本へ

1891(明治24)年、ハーンは松江の元士族の娘・小泉セツと結婚。翌年に松江を去り、熊本の第五高等学校の教師となります。1894(明治27)年に神戸クロニクル社の記者となり、1896(明治29)年、45歳でイギリスから日本に帰化して「小泉八雲」となりました。帰化後、帝国大学文科大学(現東京大学)の講師として神戸から上京し、翌1897(明治30)年の8月に初めて訪れた焼津の海を大いに気に入り、以後亡くなるまで6回もの夏を焼津で過ごしています。

八雲は東京帝国大学に7年間在職した後、1904(明治37)年に早稲田大学文学部の講師となりますが、その年の9月26日に心臓発作のため54歳で死去。日本文化に与えた功績により、1915(大正4)年に従四位が送られました。
法名は「正覚院殿浄華八雲居士」。墓は東京の雑司ケ谷にあります。


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このページの情報発信元

焼津市 生きがい・交流部 文化振興課 小泉八雲記念館

所在地:〒425-0071 静岡県焼津市三ケ名1550(焼津市文化センター内)

電話番号:054-620-0022

ファクス番号:054-620-0022

ページID:2514

ページ更新日:2023年3月1日

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