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小泉八雲と焼津
焼津の海と八雲
小泉八雲とその家族が初めて焼津を訪れたのは1897(明治30)年8月4日のことです。
水泳が得意であった八雲は、夏休みを海で過ごそうと、家族を連れてちょうどよい海岸を探していました。
八雲一行はまず舞阪の海を訪れましたが、遠浅の海で海水浴には向いているが水泳には適さないため、八雲は気に入りませんでした。
その後、順番に海の見える駅で降りて探していこうということになり、その最初の駅が焼津だったのです。焼津の深くて荒い海が気に入った八雲は、これ以後、1899(明治32)年、1900(明治33)年、1901(明治34)年、1902(明治35)年、1904(明治37)年と、海岸通りの魚屋・山口乙吉の家の2階を借り、亡くなるまでほとんどの夏を焼津で過ごしました。
八雲が描いた焼津海岸の絵
…陽がカンカン照ると、焼津という古い漁師町は、中間色の、言うに言えない特有な面白味を見せる。
まるでトカゲのように、町はくすんだ色調を帯びて、それが臨む荒い灰色の海岸と同じ色になり、小さな入り江に沿って湾曲しているのである。
(『霊の日本』所収「焼津にて」より小泉八雲著・村松眞一訳)
山口乙吉との思い出
八雲が焼津を訪れるようになったのは、焼津の海が気に入ったことのほか、八雲が夏の間滞在していた家で魚屋を営んでいた山口乙吉との出会いも大きな理由でありました。純粋で、開けっ広げで、正直者、そんな焼津の気質を象徴するような乙吉を八雲は“神様のような人”と語っていました。
乙吉は八雲を”先生様”と呼び、八雲は乙吉を “乙吉サーマ”と心から親しく呼んでいました。
「……『乙吉さん、子どもたちが、だるまさまの左目を叩きだしたのですか。』
『へぇ、へぇ』と乙吉は私の気持ちを察して含み笑いをすると、とびきり上等の鰹を俎板 の上へ持ち上げた。
……略……
『こんど大吉の日がありましたら、そのときに、もう片方の目も入れてやります。』」
(『日本雑記』所収「乙吉のだるま」より小泉八雲著・村松眞一訳)
焼津での日々
普段はひたすら机に向って物書きに専念していた八雲は、焼津では一緒に来ていた長男の一雄に水泳を教えたり、乙吉たちと散歩に出かけてトンボを捕まえたり、お祭りを眺めて大喜びしたりと、のんびりと楽しい一時を過ごしました。作家・小泉八雲ではなく、家族を持つ父親としての小泉八雲が焼津にはいたのです。
八雲の焼津でのスケッチ
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ページ更新日:2024年2月1日