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史跡「井伊直孝産湯の井」
史跡
指定の種類
市指定文化財
指定年月日
平成25年9月6日
所在地
焼津市中里地内
行き方
- 静岡方面より:国道150号中里交差点を右折,約250m
- 焼津インターより:インターを右折,八楠交差点を左折,国道150号中里交差点を左折,約250m
「譜代大名筆頭の地位を築いた井伊直孝物語」企画・制作・発行「直孝のふるさと」中里倶楽部
井伊直孝の半生と焼津市との関わりがよくわかるパンフレットです。
まんが編はこちら(PDF:3,902KB)
こちらの冊子はボランティアで、産湯の井を中心に史跡など紹介をしてくれている市民団体、「中里倶楽部」さんが作製されたものです。
解説
井伊直孝の出生と「産湯の井」
井伊直孝(1590~1659)は「徳川四天王」の一人と称えられた井伊直政の次男です。あるとき、直政は東海道を通った折、岡部宿本陣へ泊りました。そこで中里出身の美しい娘が、身の回りのお世話をすることになりました。直政は娘をたいそう気に入りました。
その後、天正18年(1590)、娘は男の子を産みました。この子が後の井伊直孝で、出産の時の産湯を汲んだのが「井伊直孝産湯の井」として、中里で大切に伝えられてきました。
江戸幕府樹立の立役者・井伊直孝
直孝の幼名は弁之助と言い、小さいころから度胸がすわっていて、誠実で裏表がない性格で、少年のころ家に忍び込んだ盗賊を退治した話や、招き猫の由来となった言い伝えなど、多くの逸話が残る人物でもあります。
父の直政は戦場で「井伊の赤鬼」と恐れられましたが、息子の直孝も大変勇敢で戦術に優れ、大坂夏の陣では大きな功績を上げて「井伊の赤牛」の異名を誇りました。直孝は徳川家康から絶大な信頼を得て彦根城主となり、家康に続く将軍・秀忠の遺言で、三代将軍家光の後見人に指名されるなど歴代の将軍の信任が厚く、戦場だけでなく、徳川幕府の内政や外交にも大きな力を発揮して、譜代大名の中で最大の領土を与えられました。
寛永6年(1629)、直孝は自らの出生地の駿河国益津郡(現焼津市)の中里に若宮八幡宮を建立しました。直孝との由緒は、焼津市指定文化財の「若宮八幡宮の棟札」に書かれています。なお、女領主として有名な井伊直虎は、直孝と面識はありませんが祖母にあたる間柄です。また、幕末の大老で有名な直弼も直孝の子孫で第一五代彦根城主にあたります。
徳川幕府樹立の立役者である井伊直孝と中里の歴史的なつながりに想いを馳せながら、「産湯の井」と関連史跡を散策してください。
史跡「井伊直孝産湯の井」
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ページ更新日:2022年8月12日