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当目砦跡
城の歴史
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築城
武田氏が花沢城を落とした永禄13年(1570)以降に築いたとされる砦です。大崩を通り府中へ抜ける大崩の尾根道は昔から重要な街道で、当目砦が築かれた時期には持舟(用宗城(現静岡市))と連携し、海上監視を含めた出城としての役目があったと考えられています。
当目砦跡(北東側より)
当目合戦
当目では天正7年(1579)から天正10年(1582)にかけて徳川軍と持舟城の武田軍との激しい合戦がありました。当時、駿河・遠江国(静岡県)内では、徳川氏(徳川家康)と武田氏(武田勝頼)が激しく対立していました。
天正3年(1575)長篠の戦いで織田・徳川連合軍が武田軍を破ると駿河・遠江国内でも徳川軍が攻勢を強め、武田軍の城を攻撃していきます。そうした中、天正7年9月に西から進軍した徳川軍は当目砦まで出てきていた持舟城の武田軍を追い返し、そのまま持舟城を攻め、城将の三浦兵部と向井伊賀守を討ち取りました。翌年5月4日、徳川軍は勝頼が相模国(神奈川県)の北条氏政と対峙している隙をついて再び持舟城を攻めようと当目峠まで進軍しました。しかし、勝頼が氏政との戦いを止め、駿府に向かったという報せがあったため、翌日持舟城攻めを諦め、引き返しました。
これを見た朝比奈信良率いる持舟城の城兵たちが、追い討ちをかけようと迫ってきたため、徳川軍の武将石川数正は、敵を峠の麓の平場まで誘い込み、取り囲んで散々に打ち負かしたといわれます。
砦の構造
砦全体の構造は、はっきりとわかっていませんが、浜当目へと延びる丘陵の先端にあったとされています。しかし、大日堂の残る北側の山を含めて縄張だった可能性もあります。
大日堂横の切通しと思われる地形
所在地・アクセス
住所
焼津市浜当目付近
自動車
東名高速道路焼津I.C.より10分(駐車場はありません)
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ページ更新日:2024年8月6日