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田沼街道とまぼろしの城

相良城跡の碑と田沼意次像(牧之原市資料館前)

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ストーリーの概要

東遠江の海沿いの街道は、「田沼街道」と呼ばれる。その名は、江戸時代の老中「田沼意次」に由来する。賄賂のイメージが強いが、その実は「またうどのもの(正直で律儀な人)」と将軍に評された為政家であった。意次の手腕は領国経営にも活かされたが、失脚によりこの地を去る。居城相良城は、わずか8年間のみの幻の城となった。しかし、意次の功績は、人々の記憶に残った。意次が通った道は、大井川の新たな渡河場に認められ、地域の流通を活性化させた。この道を、意次を慕う人々がいつしか呼ぶようになった名が「田沼街道」である。城下と街道沿いには、意次の遺産が、静かに佇んでいる。

焼津市内の構成文化財

ストーリー中の構成文化財は全23で、焼津市内ではこのうち2つの文化財が組み込まれています。

田沼街道下瀬越跡

田沼街道における大井川越えの経路跡(左岸)

国道150号線の西島交差点を曲がってすぐの道沿いの角に、「田沼街道下瀬越跡」の標柱があります。田沼街道は、ここから川下の吉田町大幡方向へ(吉田町側からは川上へ)かなり斜めの道筋で大井川を渡っていました。
江戸時代、大井川の川越しは東海道筋の金谷・島田宿間を川越人足の手によって渡ることが決められており、それ以外の場所での川越しは基本的に禁止されていました。しかし増水のため正規の越し場が川留めになった時などでも、川幅が広がった下流域ならば比較的簡単に川を渡れたため、廻し越し(忍び越し)と呼ばれる川越しが行われていました。「田沼街道」を通る下瀬越えもこうしたルートのひとつとなりました。

田沼街道を通る下瀬越えは、一般の旅人の通行は禁止されていましたが、田沼家中の者等は特別に許可されていました。田沼意次は、安永9年(1780)4月23日に江戸へ戻る際、田沼街道の検分を兼ねて、この道を通っています。

田沼街道下瀬越跡

相良城地の神の石扉

江戸時代の老中(将軍に直に仕え、政務を取り仕切った幕府の最高職)田沼意次は、反対派によって失脚させられ、領地は没収、相良城の建物も天明8年(1788)にすべて壊されることになりました。この時、焼津の船問屋をしていた岡部屋さんは、相良城本丸にまつられていた地の神様の立派な社が壊されるのを悲しく思い、社の4本の柱と4枚の石の扉を焼津に運ぶことにしました。ところが、相良港を出た後で嵐に見舞われ、扉1枚と4本の柱は海に捨てるほかありませんでした。残った3枚の扉は教念寺(焼津市東小川)に寄進され、今でも大切にされています。

相良城地の神の石扉

 

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焼津市 生きがい・交流部 文化振興課 歴史民俗資料館

所在地:〒425-0071 静岡県焼津市三ケ名1550(焼津市文化センター内)

電話番号:054-629-6847

ファクス番号:054-629-6848

ページID:19553

ページ更新日:2025年4月24日

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