焼津市ホームページ > 教育・文化 > 文化施設 > 焼津市歴史民俗資料館 > web企画展「法華寺展・本堂修理記念 古道に咲く花ー受け継がれる祈りー」
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更新日:2021年7月13日
〔企画展コーナー〕
〔仁王門から本堂をのぞむ〕
法華寺は、国の重要伝統的建造物群保存地区である焼津市花沢にある寺院で、創建が奈良時代と伝わる古刹です。この度、約100年ぶりとなる本堂の修理工事が平成30年からの2ケ年計画で行われました。本展は、これを記念して、法華寺の歴史と信仰を紹介するものです。
戦火などで荒廃するたびに、多くの人の信仰の力によって寺が再興され、貴重な文化財が受け継がれてきた歴史の一端を御覧ください。
*本展開催にあたり、資料出品および写真展示に御協力いただきました法華寺様をはじめ、御協力いただいた皆様に厚く御礼申し上げます。
〔法華寺境内〕
花沢は焼津市北方の山間部の谷地にある30戸ほどの集落です。平成26年(2014)、県内初の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
地区の中央には古代の東海道といわれる日本坂峠への道が花沢川と並行して通り、集落は法華寺を北端として、その南に位置しています。周囲が山々に囲まれているため、山の中腹から遠望すると隠れ里のように感じられます。
山の谷地に形成された花沢の景観は、街道沿いに連なる石垣と建物群が周囲の山林・畑地、川などの自然環境と調和し、独自の歴史的風致を形成しています。
〔花沢地区遠望〕
法華寺は、花沢の集落最奥部に位置する、市内唯一の天台宗寺院です。山号は、「高草山(こうそうざん)」といいます。名僧行基(ぎょうき)により天平10年(738)に創建されたと伝わります。古代の東海道といわれる日本坂峠への入り口に位置し、古くは天台宗の大寺院として、江戸時代以降は、駿河一国三十三所観音霊場の札所として、多くの人から信仰されてきました。
寺では静岡県指定文化財の木造聖観音立像のほか、市指定文化財である仁王門など多くの文化財を所蔵しています。また、境内の「乳観音(ちっちかんのん)」は乳の出を良くするといわれ、古くから近隣の女性に親しまれています。
法華寺の住職豪栄によって記されたもので、寺の草創から彼の代までの沿革が述べられています。寺では、戦国期の兵火によって古記録を失っているため、寺伝ではありますが、寺の歴史を知ることができるほぼ唯一の資料です。元禄期の寺の再興事業の経緯のほか、寺地や諸堂についても詳細に記されています。
〔「法華寺建立記」(花沢城での武田・今川の戦いにより、諸堂が焼失したと記されている部分)〕
「絵馬」は、人々が自分の願いごとや感謝の気持ちを込めて寺社に奉納したものです。「絵馬」には、奉納した当時の風俗や信仰の様子が反映されていて、人々の暮らしや社会状況を知る手がかりとなります。法華寺には、本堂の内陣に8点、外陣(げじん)に25点、山門に4点の合計37点の絵馬が確認されています。奉納時期は、江戸時代から昭和にかけてで、一般的に「絵馬」と呼ばれるもののほかに、わらじを板に打ち付けたものや漁船の写真などもあります。
前足を大きく上げた赤い馬を描いたものです。裏面には「駿州益津郡花澤村/観世音 寶前/法華寺」の墨書があります。奉納された時期は不明ですが、わずかに金箔が残っていて、奉納された当時の豪華さを偲ばせます。「赤馬」の絵には、日食の不安を鎮める力があるとされます。
絵馬の両面に絵が描かれている珍しいものです。墨書に見える「元禄七年」という奉納年は、確認されている奉納絵馬の中で最も古いものです。また、この年は、諶政が荒廃した法華寺を再興しようと動き始めた年でもあります。別面には、「月に虎」らしき絵がわずかに残っています。
〔赤馬〕
〔囲碁を打つ人物〕
二十八部衆は、千手観世音菩薩を守護する眷属(従者)です。法華寺でも本尊の千手観世音菩薩像の周りを取り囲むようにして28体の像が安置されています。法華寺の二十八部衆像は、運慶(うんけい)作と伝わりますが、像の体内納入文書には、寺の再興に尽力した諶政が、元禄12年(1699)に造立したと記されています。彩色や修理が何度か行なわれた記録がありますが、現在、着色はほとんど失われています。本展示では、28体の内、「阿修羅像(あしゅらぞう)」「毘楼博叉天王像(びるばくしゃてんのうぞう)」「風神像(ふうじんぞう)」「雷神像(らいじんぞう)」の4体を展示します。
東西南北を守る四天王のうち西方を守る広目天の別名です。兜をかぶり、甲冑に身を固めています。右手は胸前で武器を持ち、左手は高く振り上げて刀を持ちます。邪鬼の上に立っています。
毘楼博叉天王像の体内に納められていた文書です。現在、2体の像からあわせて3点の文書が確認されています。この文書から、二十八部衆が元禄12年4月に造立されたこと、明治15年3月に、玉眼を入れ彩色を塗り替えたことがわかります。
〔体内納入文書〕
〔納入された文書〕
法華寺は、駿河三十三観音霊場の第十番札所でもあります。この霊場巡りは、県内で最も古い安倍七観音霊場巡りをルーツとし、現在の島田市から沼津市にかけての観音菩薩を巡るものです。江戸時代初期に成立したと考えられています。
法華寺には、巡礼者が納めた納札やお金や物を寄付した人を紹介するための寄進札が数多く残されています。こうした多くの人の信仰の力によって、寺が守られ、貴重な文化財が現代に受け継がれてきたといえます。
納札は、巡礼者が霊場に参詣した際にお堂に納めたり、柱に貼りつけたりします。今回の本堂修理工事の際に本堂外陣(げじん)の長押(なげし・柱と柱を横につなぐための建築部材)の中から発見されました。また、そのほかにも50点ほどの納札が保管されていたことも判明しました。墨書を確認できた納札から、奉納時期は享保年間に集中していること、巡礼者の出身地は「志太郡」「安倍郡」「有度郡」など、県中部の地域が多いことがわかります。
本堂の壁面にあったものを今回の本堂修理工事の際に取り外したものです。全体で2000点ほどあり、現在整理作業を進めています。確認できた札から判明した寄進者の出身地の分布によると、現在の焼津市を中心として、近隣からの寄進者が目立ちます。奉納年は記されていませんが、記載された町村名の表記によると明治から昭和30年代に寄進されたものと考えられます。
御開帳は、寺院が秘仏とする本尊などを一般公開することをいいます。法華寺の本尊も秘仏のため33年ごとに御開帳が行なわれています(平成31年春の御開帳を予定していましたが、新型コロナ感染拡大に伴い、現在のところ御開帳は延期となっています/日程が決まりましたら、ホームページ等にてお知らせします)。
御開帳の目的は、普段見ることのできない秘仏を多くの人に拝観してもらうことですが、寺社の修理費などを得るために行う場合もありました。法華寺では、寺の再興費用を集めるため、元禄10年(1697)、江戸の浅草で「出開帳(でがいちょう)」と呼ばれる出張公開を行っています。
展示資料にある安政3年(1856)と明治36年(1903)の御開帳は、それぞれ「本堂諸堂の修復」「本堂と仁王門の屋根替えと仏像の彩色」費用のためと記されていることから、臨時に行われた御開帳であったと考えられます。
〔御開帳の記録〕
現在の法華寺本堂は元禄年間の再興事業により完成したものです。建造以来、何度かの修繕を経て、現在に至っています。
近年、風雨による痛みが進んだため、本堂の修理を待ち望む声があがっていました。そうしたなか、平成30年度と令和元年度の2ケ年にかけ、人々の念願だった本堂の修理事業が実施されたところです。
工事では修理前の本堂の形を変えないよう努めながら、使用に耐えうる古材を極力用いつつ、建物の健全化が図られました。修理が進むなかで新たに見つかった腐食部分などもありましたが、工事関係者、法華寺檀家総代など多くの人々の努力で、次の100年につながる大修理が行われました。
ぜひ御参詣いただき、修理のなった本堂をご覧いただければと思います。
【現在、新型コロナウィルス感染拡大防止のため、法華寺境内は、立ち入ることが出来ません。開放の時期については、わかり次第お知らせします。】
〔修理を終えた本堂〕
〔修理の様子〕
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