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甚助さんの板子

万延元(1860)年、旧れきの七月十日、焼津の漁船福寿丸は、四国沖に船頭の吉衛門のほか八人で船出していました。この中に甚助さんという十九歳の若者がいました。

十一日の夜、船が紀州沖にさしかかったころから風と雨が強くなり、やがて台風にかわり、船はついに荒れくるう波にうたれ、転ぷくしてしまいました。甚助さんは、この時、船板の一枚を海に投げこみ、自分も飛びこみました。

やっと一メートル先が見えるほどの暗い海でしたが、幸いなことに、投げこんだ板がみつかって、それにからだを乗せていました。船は、まもなく波にのまれてしずんでいってしまいました。

この船には、乙吉と勘吉、巳之助兄弟、松五郎も乗っていました。五人は、大波の間にういたりしずんだりしながら、たがいに名前を呼び合いながら泳いでいました。その中で、四十二歳になる勘吉は、何も持っていませんでした。甚助さんは、「にいさんには子どもがいる。おれは一人者だ。それにまだ若い。この板はにいさんにやるよ。」と、いうと、勘吉は、「この海じゃ、板はかえって危ない。板をはなれろ。」というのだけ聞こえ、あとは何かいいましたがわかりませんでした。その時、大きな山のような波がおし寄せ、勘吉の姿は見えなくなってしまいました。

四人は、少しはなれて泳いでいました。「甚よ、こっちへ来い、こっちへ来い。」と、呼ぶ声がきこえましたが、甚助さんは波のようすを見て、呼ばれた方へいくのは危ないと思い、ただ、波にしたがって流れていました。たがいにさけび合う声も遠くなってしまいました。そのうち、どのくらいたったのでしょうか、声も聞こえなくなり、ただ雨が波といっしょに頭にかかってくるばかりでした。

甚助さんは、その夜一晩中、小川のお地蔵さんと金比羅さんを、いっしょうけんめい心の中でとなえ、夜明けをむかえました。海の色はどすぐろく、小さな山のような波がいくつも重なり、霧のようになって遠くは見えませんでした。そのうちにおなかがすき、のどもかわいてきましたが、海の上ではどうにもなりません。その日は一日中、大波と風と雨にからだをまかせて、ういたりしずんだりしていました。そのうちからだが弱り、とうとう、意識がなくなって気が遠くなってしまいました。その時、こしのあたりに火でもついたような痛みがしました。カツオのエボシというクラゲにさされたのでした。甚助さんは、板から手をはなしていたので、もう少しのところで海にもぐるところでした。甚助さんは思わず、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、となえました。

また、次の日の朝がきました。夜明け前には雨がやんで、星が雲の間から見えて、東の空が赤々と晴れてきました。うとうとしている時、海鳥に頭をつつかれ、目がさめました。前の方に山がかすかに見えて、陸地が近いことを知りました。そして、急におなかのすくのを感じましたが、がまんして何時間も陸の方へ向かって泳いでいきました。

ふと気がつくと、大きな帆船がこっちへ向かって来るではありませんか。この時をのがしたら、もう助からないと、甚助さんはいっしょうけんめい泳いで、船にあと三百メートルばかりのところまでたどりつき、大声でさけびました。すると、一人の男が甲板にあらわれました。そして、帆船から小舟をおろしてくれました。「ほかに仲間はいないのか、落とした物はないか。」と、聞かれましたが、甚助さんは、「板子一枚だけで、何もない。」と、答えたきり、気を失ってしまいました。その夜は、帆船の中のつり提灯の下で寝かされました。目がさめると、年とった船乗りが、「少し、食ってみよ。」と言ったので起きあがろうとしましたが、動けませんでした。その次の日には、だいぶ元気がでてきました。「お前は、二日二晩、海につかっていたのだ。二十五里(100キロメートル)流されたことになる。お前がつかんでいた板は、あとでほしがると思って拾っておいた。」と、船頭がいいました。また、はだかの甚助さんに船員のみんなが、着物、帯、ぞうりなどをくれました。そのうえ、お金を七両ばかりくれました。甚助さんは、たび重なる親切に何度も何度もお礼をいいました。

こうして甚助さんは、焼津に帰ってきました。甚助さんの命を救った板は、その後、小川のお地蔵さんに納められ、本堂の正面にかかげられています。そして、この物語を今に伝えています。

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ページ更新日:2017年3月18日

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