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方ノ上城跡

城の歴史

【築城】

築城の時期は永正年間(1504~1521)といわれ、駿河国の西の守りとして今川家の武将が築いたと考えられています。その後、花蔵の乱といわれる今川家の内乱では、花倉城(葉梨城)を守る城として機能したと考えられます。

しかし、江戸時代に書かれた地誌等には記録がなく、方ノ上城がその後どうなったかはわかっていません。

方ノ上城

方ノ城(南東側より)

【花蔵の乱】

「花蔵の乱」は、天文5年(1536)3月17日に今川家当主今川氏輝が急死し、同日に上位継承者であった弟彦五郎も亡くなったことにより生じた今川家の家督争いです。

氏輝と彦五郎には、子どもがいなかったため、僧になっていた氏輝の2人の弟、栴岳承芳(のちの今川義元)と玄広恵探(花蔵殿と呼ばれた)との間で、家督争いが生じました。氏親の正室寿桂尼を母に持つとされる承芳と、承芳より2歳年上ですが、側室の子である恵探との家督争いは、領国を二分する戦いに発展しました。
承芳が駿府の今川館を拠点とするなか、恵探は高草山を挟んだ山西の花倉城(葉梨城)や方ノ上城を拠点としていました。方ノ上城の山頂では狼煙を使って花倉城と連絡をとっていたとの説もあります。
天文5年5月、両軍は駿府で衝突しますが、相模の北条氏綱などの援軍を得た承芳派が攻勢に出て、6月には方ノ上城と恵探の立てこもる葉梨城が落城しました。恵探は逃げ落ちましたが、普門菴(現藤枝市)で自刃し、承芳派の勝利で「花蔵の乱」は終結しました。
乱の終結後、勝利した義元から家臣の岡部親綱にあてた書状に「今度の一乱、当構えならびに方上城・葉梨城に於いて、別して粉骨を抽んじ畢んぬ、はなはだ神妙感悦の至りなり……」とあり、方ノ上城の名前が見えます。

城の構造

方ノ上城は、高草山の中腹の南西に伸びる尾根上にあります。この城のある山は、石合山と呼ばれる円錐形の美しい姿をしています。方ノ上城の縄張は、この山の山頂付近が推定されているものの、堀切や土塁の残る尾根を含めて平地が狭いため、多くの兵を駐屯せていたのは山の中腹だった可能性があります。

「城」と名付けられていますが、展望のきく立地から物見を目的とした砦、あるいは、狼煙台の役割を持っていたと考えられます。

所在地・アクセス

焼津市関方

方ノ上城地図(外部サイトへリンク)

【公共交通機関】

JR東海道本線、焼津駅南口より焼津岡部線(バス)「関方」下車、徒歩20分

【自動車】

東名高速道路焼津I.C.より10分(駐車場はありません)

このページの情報発信元

焼津市 生きがい・交流部 文化振興課 歴史民俗資料館

所在地:〒425-0071 静岡県焼津市三ケ名1550(焼津市文化センター内)

電話番号:054-629-6847

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ページ更新日:2021年7月20日

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